久我山ラグビー部OB会公式サイト

國學院大學久我山高等学校 ラグビー部OB会公式サイト

OB通信アーカイブス

久我山への思い(1992年1月20日)

 昭和34年(1959)4月、私、中村誠が、國学院久我山高校の教員になった。
当時は、放課後グランドに出ると、部員が5~6名ラグビーボールを蹴って遊んでいるという状態の部でした。
私は体育の時間に、運動能力の高い者を見つけてはさそい、又、柔道部やサッカー部等の生徒を引っ張って来て、試合に出したりして、やっと15名の人数を揃えるといった状態が何年も続きました。
ラグビー部を「つくる」ということは、先ずは部員を集めることだ。
部員を集めるにはどうしたら良いのか。
いろいろ考えた給果、各クラス担任の協力無くしてはできない、各担任が応援してくれるラグビー部でなくてはならない、と気付きました。
以後、グランドで私が言うことは、遅刻をするな、服装を正せ、掃除当番はしっかりやれ、授業中居鳴りをするな、ノートを取れ、担任の言うことを守れ、宿題は必ずやれ、予習をしろ、復習をしろ、等々。
ラグビー部員としての活動以前に、クラスの中の一生徒として、やるべきことをキチンとやれ、と言うことばかりになりました。
それから数年、以前はラグビー部などやめた方が良いと言っていた担任も、クラスの悪い生徒に、ラグビー部に入って鍛えてもらえ、などと言うようになって来ました。
昭和40年度、甲府で行われた関東高校ラグビー大会に初出場いたしました。OB達も喜んで、多勢応援に来てくれたものです。
昭和44年度、第49回全国高校ラグビー大会に初出場しました。
全国大会などという大会は、我々には関係のない所でやっているものだと思っていた。
その大会に、遂に出場してしまった訳です。
しかし、いざ試合になると、何をやっているのかわからない内に、アッと思う間に試合が終わっておりました。
次の年からは、全国大会に出場するだけでなく、勝ってやろうという気になりました。
勝つためにはどうすれば良いのだろう。
秋工は何故あんなに勝っているのだろう。
それなら、優勝回数のずば抜けた秋工に行って見ようと考え、昭和50年前後、5年間はど夏休みを利用して、秋工通いをしました。
昭和50年度、第55回大会に初優勝、以後昭和61年度の第66回大会までの間、優勝4回、準優勝1回、3位2回、ベスト8 1回という、久我山の第一期黄金時代とも言える時期を築き上げることができました。
しかし、昭和62年度の第67回大会以来4年間に1回しか出場できずそれもベスト8止まり、低迷期と言えるような状態に入りかけました。
しかし今年、平成3年度、第71回大会に於いて、2年ぶり17回目の出場でしばらくぶりで決勝戦まで進出することができました。
久我山健在なりと、全国に知らしめることができた訳です。この火を消してはいけないのだ。この火を燃やし続けなければならないのだ。
高校ラグビー大会は、71回の歴史をもつ、その中で秋田工業の優勝15回という記録は、この私の生きている内に追いつくことはできないと思う。
次は同志社の9回、これはほとんどが戦前の記録だ。
次が天理の6回、そして目黒の5回と続く。
又一方では一人の監督がすばらしいチームを作ったがその人が去ると、チームも衰退してしまうといった例は数多くある。
私は考えるのだ!この久我山を、この私が死んでしまった後にも、優勝回数をドンドンふやしていく、常に高校ラグビー界をリードしていく、強い久我山にしなければならないのだ!
私は、昭和63年度より、監督を浜野昭夫にゆずった。
私は未だ未だ元気だ、私がやればもっともっと……という気もある。
しかし、時代は流れていくのだ、私が元気な内に、この私の元で浜野久我山をモノにしなければならない。
今年度はやっとその第一歩ができた気がする。
しかし、準優勝ではダメだ。1番にならなければダメなのだ!
中村誠部長、浜野昭夫監督、土屋謙太郎コーチで、5回目の優勝をし、せめて天理の6回優勝の記鐘には追いっかなければならない。
そして指導者が変わっても、時代が流れてもこの久我山は常に高校ラグビー界のトップに居なければならないのだ。
卒業生は、各大学のラグビーに入って行き、秩父宮ラグビー場でやる大学の試合には久我山OBが多勢出場する。国立競技場で行われる早一明戦は、久我山のOB戦のようだ…などと夢のようなことを考えております。
そのためにも、ここ数年が大変重要です
中学校、小学校のスポーツに夢を持った少年達が、皆この久我山を目指して来るような、そして親達もスポーツをやらせるならこの久我山で…と。高校へ入れるなら、この久我山へ…と。
皆が久我山進学を希望するような。そんな久我山高校にしなければならないのだ。
さて、このOB通信も100号を越えました。
久我山ラグビーも優勝4回、準優勝2回、3位2回、ベスト8 4回、という出場17回にして、ベスト8以上が12回という、輝かしい記鐘も残せました。
アトは、このチームをいかにうまく引き縦ぐかです。
学校内でのラグビー部は、浜野監督で着々と、上手に引継ぎが行われています。
このOB通信も、いっまでも私一人が書いているのではなく、OB会の中、OB通信発行の機関をっくって、原稿書きから、発送まで、組織としてやるようにしなければならない。
OB会にとっても、ここ数年が大切な時期です。小菅幹事長をはじめ、若い人達の情熱に期待します。久我山ラグビーの火を消してはならないのだ!


ラグビーは教育だ(1974年10月)

 久我山ラグビーも全国大会に出場して6年目になります。
日本中のラグビー関係者で久我山の名を知らぬ者はないまでになりました。
今後は何としても、高校日本一を目指すのみです。
部員一同の努力は勿論、OB、父兄、先生方、同窓会の方々、中学校の先生方、等々の御理解、御援助をいただかなければならないと思います。
精神の発育の最もはげしい高校生達です。
何事にも無関心な若者の多い世の中です。
一ツの目標を持ち、あらゆる欲望を打ち払い、ガムシャラに努力する若者の姿。
ラグビーは教育です。
自信をもって大声で言えます。
ラグビーこそ教育です。
自分の青春に強烈な足掛を残し、久我山ラグビーに自信と誇りを持つ、そんな卒業生を送り出したいと思っています。
どうか久我山ラグビーを御理解下さいまして今後共御声援下さいますようお願い致します。 
久我山ラグビーも全国大会に出場して6年目になります。
日本中のラグビー関係者で久我山の名を知らぬ者はないまでになりました。
今後は何としても、高校日本一を目指すのみです。
部員一同の努力は勿論、OB、父兄、先生方、同窓会の方々、中学校の先生方、等々の御理解、御援助をいただかなければならないと思います。
精神の発育の最もはげしい高校生達です。
何事にも無関心な若者の多い世の中です。
一ツの目標を持ち、あらゆる欲望を打ち払い、ガムシャラに努力する若者の姿。
ラグビーは教育です。
自信をもって大声で言えます。
ラグビーこそ教育です。
自分の青春に強烈な足掛を残し、久我山ラグビーに自信と誇りを持つ、そんな卒業生を送り出したいと思っています。
どうか久我山ラグビーを御理解下さいまして今後共御声援下さいますようお願い致します。


自覚そしてやる気-菅平合宿-(1975年9月)

 今年度の久我山は試合経験では、昨年度のメンバーが、そのまま残り、本番の大会の経験も充分、練習試合の数も充分ですが、一面、時間をかけてしっかりと気合いの入った練習を、ほとんどやっていない。
そこでこの菅平では、試合は少なくして同宿の東洋大と一緒に、ジックリと練習をやることを目的にやって来ました。
選手達も練習であれだけバテタ状態になったのは、しばらくぶりでした。
又、早稲田大学の気合いの入った寸分のスキのない練習も見学し、やはりラグビーにかぎらず何事も「自覚」と「やる気」次第であると改めて感じてきました。
我が久我山の選手達が、あのワセダの練習を見て、何を感じ取ってくれたかが問題です。
今後に期待しましょう。


自信と誇り(1976年9月6日)

 久我山とはこういう学校です。サムライは己の能力を知る大将のためには、いのちを投げ出す、といわれます。会社なら社長、学校なら校長が信頼のできない人間であったら、惨めです。
私の勤務する「国学院大学久我山高校」に対し、私自身「自信」と「誇り」を持っております。
もちろん自分のやっている「ラグビー」に対してもです。我が國学院大学久我山高校を世間の多くの人に知ってほしいと思います(この後に中村誠先生にとっての「大将」、当時の佐々木周二校長の文章の紹介がありました)。 


大きな目標に向かって(1976年11月)

 佐賀国体少年Aブロックでは予定通り全東京の優勝で終りました。
今年の全東京は、春の都大会優勝の目黒梅木監督が監督となり、メンバーの構成から練習等スケジュールー切梅木式で、やはり私とは大変やり方が違うということを感じました。
今年の国体で、例年と一番違った点は「民泊」です。2~3名ずっそれぞれの家庭に引き取られ大変なもてなしを受け選手達は皆2kgほど太ってしまったというほどです。
試合はAブロックでは東京と決勝した宮崎、これは高鍋主体ということですが、なかなかしっこく食い下がってくるチームです。準決勝の大分は舞鶴ですが、これもタックルが良く、スクラムも強く、東京は大変あぶない試合をやりました。Bブロックは優勝が大阪、これは大工大附の単独でしたが昨年のメンバーがほとんど残りFW,BK共に均整のとれたスバラシイチームです。これと決勝をやった岩手は盛工ですが、相変わらず強力なFWを持っています。こうして考えると、今年度の見通しは今のところでは、目黒と大工大附がトップレベルである。これに次ぐのが、久我山、盛工そして高鍋、舞鶴等の九州勢もかなりの力を持っている。この辺りで今年の高校日本一が争われると思います。

今年度1月、新チーム結成以来、2月、3月と、いくらやっても勝てず(目黒に)毎週末にイヤと言うほどやっつけられ、3月には東北や関西から遠征に来たチームにも全部負け、東京都春季大会決勝も15-18で目黒に負け、6月7月と負けて負けて負け続けました。
8月菅平の合宿で、天理、報徳、新潟工、東洋大、日体大(大学生は2軍~5軍)などに勝ち、やっとなんとかカツコウがっいて来たナという感じで9月又また、目黒こ負けて、負けて10月に入り1日、3日と相変わらず負け、もうこのままでは今年はダメか?と思い切って1年生を4名も使って10日やっと1点差。11日やっとの思いで10ヶ月目にしてやっとの思いで完勝の試合をした。この日は、八幡山の夕暮れのなか皆で思わず部歌を歌って一日を終えた。
よし、このまま波に乗って…と思うとき、悲しいかな中間試験1週間前となり、練習中止の時期となってしまった。(目黒は2期制なのでこの時期に試験はない)(又、試験中は、授業がないということでかえって多く練習をやっている)この時期に、せっかく追い着いたのに、又差が出る。試験の2週間は、どうにも痛い。10月30日夜遅く佐賀国体から帰り、31日さっそく目黒と試合、又してもコテ負けである。どうしたらいいのだろう?どうしたら勝てるんだろう?今年はダメか?OB諸君、俺をたすけてくれ!投げ出せるものなら、投げ出してしまったらどんなに楽だろう。しかし、やるしかない。自分が久我山に居る以上久我山でラグビーを志す生徒がいる以上、やらなければならないのだ!! 11月、東京都予選が始まる、久我山は今年は予選がない。この11月イッパイみっちりと鍛えに鍛え、目黒に追いつき、追い越さねばならない。12月は又試験である。この1ヶ月しかないのだ。生徒諸君、弱気な者は去れ!苦しみに耐えられない部員は去れ!選手は変わろうともこの久我山は、昨年度優勝チームである。誇りと自覚を持って、この名誉を、ふたたび勝ち取るべく、ただただ努力あるのみ……


死にもの狂いで(1979年5月)

4/31、5/1と目黒に一方的に勝ったと思ったら、5/5は逆に一方的に負けです。3試合もやり、全然勝てない。いやになって、にげだしたくなります。5/6は、公式戦(都春季大会、関東大会予選)がありましたが、目黒に負けたままで終われないので、午前中にやり、一方的に勝ちました。8本-2本です。しかし、最後のこれで終わりという一本勝負を取られてしまい、全く残念です。
こうして、目黒相手に死に物狂いで、気違いのようにやっているので、実力がついていくのです。
選手の苦労は大変です。しかし、私も大変です。家庭も何もオッポラカシで、ラグビーラグビーの連休です。しかし、事を成し遂げるには気違いにならなければできない。やっている者にしか理解してもらえないかも知れませんが、やりかけた事をやめる訳にもいきません。 今後も、もっともっと気違いになってやろうと思います。今年も御声援下さい。


勝利への執念(1979年10月)

1979年7月
現役が強くなるということは、OBにとっても喜ばしいことです。俺は久我山を卒業した、久我山ラグビーのOBだ!ということが、現役が強くなるはど誇りに思えるはずです。

1979年9月
9月16日(日)熊谷工、全神奈川、目黒と八幡山も朝から大変ないそがしさでした。
目黒とは夕方になってから、最後に半分だけやり、4本-1本で負けです。
9月8日にも大変意気込んで、今日こそは勝とうと約束してやりましたが、25分で2本-0本で負けです。今年は目黒に勝てないのか?どうしてもこの目黒に勝てなければ全国優勝はできないのだ!
熊谷や神奈川は問題ではない。花園、伏見にも勝てる。大工大もよし、舞鶴にも勝てるだろう。残るは三つだ! 黒工、秋工、目黒の三つだ!!この内一番身近にいる目黒を破らなければ、先に進めない、目黒に勝たなければ優勝はできないのだ。あと3ヶ月半、やるしかない、勝つまでやるしかない。狂気になれ、狂気になって何回でも勝つまでやるしかない。3年生諸君、高校生活最後の3ヶ月だ…やれ…。

1979年10月-久方ぶりで目黒に勝つ!
10月11日、国体出発の前日。6月、都の決勝戦で目黒に負けて以来いくらやっても負けてばかりいましたが、久しぶりで目黒に勝ったと喜んでいたら、国体から帰って中間試験の後、10月27日、またしても1本-4本で負け、次の28日午前中6本-1本で勝ったと思ったらその午後、2本-5本で負け、やっぱりまだあと一歩か!しかし、たしかに追いついてきていることはたしかだ。ベストメンバーが揃った時には、勝てるようだ。何名か欠けると負けるようだ。この辺が今年の久我山の弱さだ。昨年は、メンバーが何名人れ替わろうと、チームとしての力は全然落ちなかった。今年はガタンと落ちてしまう。正月の激しい試合が続く大会に勝ち抜くには、この点が、心配だ。しかし久我山も強くなって来ていることはたしかだ。このまま伸びて行けば、そして目黒に勝、勝、勝が続くならば、今年もねらえるのではないか。乞う御期待!


けが(1980年7月)

今年の3年生は8名しかおりませんが、皆ケガで、ロクに練習もやれず、毎日練習に参加しているのは常に2、3名です。他は皆見学でヤクに立ちません。我々が学生時代に、ケガも実力のウチだとよく言われましたが、今になって実感として良く分かります。
今のところ、3年生が少なくダメな分だけ、他チームよりおくれをとっています。3年が立ち直るか、2年がもっともっと伸びるかしないと、このままでは、今年はダメかと思えて来ます。毎日、何とかしなければと思いながら、グランドに行きますが、毎日、苛々と、腹立たしさと、情けない気分を味わっています。目黒と比べ、どうして久我山の選手ばかりケガが多いのか?同じ様にケガしても、どうして久我山のヤツはいつまでもなおらないのか、目黒のヤツはどうして、すぐになおってしまうのか。やはりケガも実力の内、弱いヤツはどケガをする。弱いヤツはどなおらない。そう考えざるを得ない。何とかしなければ…と思いながらもう夏休みです。この休み中に強くなるキザシが見えてこなければ、本当に今年はダメかも知れない。東京の予選を勝ち抜くことすら見通しが立たない。強くなるクスリはないものか。
どうやったら強くなるのか。誰か教えてほしい。


激しさ、気迫!(1980年9月)

大工大高に大敗:すべての基本となるスクラムが、どうして こんなに弱いのか、一人一人の体格を比ベても、塩入167cm78kg、大沢180cm80kg、山田徹180cm90kg、引間178cm88kg、岡 村174cm75kg、と決して小さい選手ばかりではない。ロックも平原180cm81kg、山崎182cm82kgとけっして小さくない。それなのに、 何故スクラムがあんなに負けるのか。引間、山田は1年生だからか、ここ一番の踏んばり、ガマンがきかない。大沢は強そうに見えていっになっても強くならな い。塩入は寸足らず、岡村はFWの中心となる様なガムシャラさが全然ない。どれをとってもダメだ。このフロントローのダメさが、そのまま試合内容に出てし まう。BKもトライを取れる型がない。WTBの鈴木嘉一がほんの少し前へ出るくらいで、他はタダボールを回すのみ、回した分だけ後へさがっている状態である。

プレスキックを含んでキック力も、逃げる様なキックばかりで、全然的確さがない。フランカー、ロックも走りが足りない、激しいタックルがない。ハーフ団 の判断の悪さは決定打だ。どうしてこんなにニブイ者ばかりなんだろう。タックルなどは技術より意志の問題だ!11/24東京代表決定戦、対保善はスクラム だ、スクラムに負ければ、試合そのものに負けてしまう。体が大きくても、走力があっても、結局はそれを支配する意志の問題だ。低い、激しいタックルが、あ れだけ言っても、あれだけ練習しても、試合になるとやらない、できないのではなく、やらないのだ!どうしたらいいんだろう。
日比野サンの入門書「ラグビー」に「バカヤロー」「タックルせんか」「やる気があるのか」など、指導者の口にする言葉ではない。と書いてある。耳が痛い、しかし言いたくなる。やる気があるのなら、なぜタックルをしないのか。外されても、突き飛ばされても、激しく向かって行く気迫がなければ勝利などあり 得ない。夜、目が覚めると何故押されるのか、メンバーをどう組もうかと思って、ねむれない。学校でも、どうしたら勝てるのか、何故弱いのか、何をどうやらせたら良いのか、私ではもうダメなのか、等々思い悩んでしまう。


向気!(1981年9月)

大工大高と分ける!
大工大戦でも、BKの攻撃に積極性がない。これはBKリーダーの性格が、積極牲に乏しいためにそこから出るサインや、攻撃方法がどうも力強さがない。迫力がない。
たしかに良い選手ではある、高校代表にも入っている、北島忠先生や岡先生もいい選手だと言ってくれる。しかし、私から見ればマグマダ物足りない。
リーダーとして苦境に陥った時に皆の勇気を鼓舞して、自分自身奮い立ってハネ返して行く力強さがない。高校3年生にそこまで望むのはむりか?
いや池田剛だって、本城だって、砂村だって、BKリーダーとして、もっともっと向気の強さがあった。
他のBKの連中も、BKがダメならFWだけでもガムシャラに突き進んで行く力強さがない。
このままではダメだ。本大会に出るだけで終わってしまうだろう。本大会にでることすらおぼつかない。
あと2ヶ月で予選が始まる、何とかしなければならない、どうしたら勝てるチームにできるか。


伝統を作るのは…(1983年2月)

念願の3度目の全国制覇成る
今年度は春から、今年こそチャンスであると考え、生徒にもそのことを常々言って来ましたが、そのチャンスをものにできたことに大変喜びを感じます。
結果を見れば、大勝、楽勝などと言われますが、内状はけっして楽ではなく、色々な面で大変苦しい大会でした。試合そのものもそうでしたが、私が一番苦しみ悩んだのは、遠征選手団メンバーの決定です。3年間共に苦しみ、楽しみ、それこそ苦楽をともにして来た3年生を、全員奈良へつれて行くことができない。選手としてハツキリと差があれば仕方ないが、東末のかわりに市村が出場してもチームカが全く落ちなかったように、今年の3年生は誰が出場しても力は変わらない。それを奈良へつれて行く選手団からも外さなければならない。
12月15日、誰も居ない校舎の誰も居ない教室で3年生全員を集め、決められないメンバーを決め発表しました。外された者が、何故かと言ったら私は説明のしようがなかった。
それを、後に残った者達が「1,2年を指揮して、しっかり練習をやっておくから、必ず優勝して帰って来い。」と言ってくれた。皆で泣きました。私は彼等がどうするか大変気に掛かった。年が明け、大会もベスト8、ベスト4と勝ち進むうち、彼等は自費で応援に来た。私が大変嬉しかったのは、彼等の父母達が自分の息子が出ていなくとも、選手団にさえ加えてもらえなくとも、交通費、宿泊費、大変な出費をして応援に来てくれた。私は彼等に何がしてやれたのか、今後何をしてやれるのか。
久我山ラグビー部のこの優勝は、昭和57年度東末吉史キャプテン以下29名の3年生、91名の部員全員で勝ち取った優勝である。このことは久我山ラグビーの歴史にハツキリと記録されなければならない。彼等は、それぞれ大学に進み、全員が今後もラグビーを続けると言う、今後の彼等の活躍に心から声援を送りたい。

私は思い出す
今から8年前、昭和50年度である。主将日下稔(現日新製鋼)副将長沼龍太(現サントリー)全国大会初優勝の年である。それまで毎年のことであるが悩みがあった。
1学期、2学期とテストの後毎にある父母会、その後の職員会議で1年生の担任からきまった話が報告される、それは、1年の部員がボールを家に持ち帰り1時間もかかって磨いている、時には親が変わって磨いている、勉強時間がとれない、疲れる、大変だ、学校でクラブをやり家に帰ってまだこんなことをやらなければならないのか。
その結果、学校として、活動時間の制限であるとか、禁止であるとか、何か制限を加えておさえようとする、当事者としては、何か悪い事をさせているような意識にさえなってしまいそうである。
私は考えた。どこの大学でも、どこの高校でも、ボール磨き、部室の掃除など雑用は全部1年生がやつている。
何故だ、時間で制限しても、昼休みにしても、どうしても問題が残る。
いっそのこと、ボールも含め一切の雑用から1年を解放してやったらどうか、ボールなど磨かなくてもいいじゃないか破れたら買えばいいじゃないか、物を大切にする気持ちなど、どうせないのだ!等々色々考えたあげく、
ボール磨き、ボールの持ち運び、ポンプの持ち運び等ボールに関することは一切2年生がやる。
1年は自分の練習をやり、それ以外の雑用は一切やらない、全ては2年がやるのだ!
と申し入れた。
時の2年生は、次の年主将になった砂村光信、副将相沢雅晴以下11名であった。彼等は昨年1年間雑用一切をやっている。今年又1年間やらなければならない。大変な抵抗があった、あって当然である。私は彼等を集め、久我山の歴史をお前達が変えて行くんだ。どうしても俺の言うことが納得できないヤツは退部しろ!と半分納得させ、半分オドシて、やっと自分達でやりますと言わせた。
この年初の全国制覇が成った年である。

今の久我山ラグビーでは、ボールに関することは当然のこととして2年生がやっている。しかし、その時々の生徒(選手)が、真剣に取り組み、ガマンできないことをガマンして、一生懸命にやって来た。
だからこそ現在の久我山ラグビーがある。
今は久我山ラグビーは、もっともっと発展させなければならない。勉強の面、生活の面、そしてラグビーそのもの、全てに優れた優秀な生徒の集団にしたい。その年、その年の生徒の最大限の努力のつみ重ねが久我山ラグビーの歴史を作って行くのだ。


目標(1984年2月)

念願の二連覇ならず
ベスト8が今年の久我山の実力であったと認めざるを得ません。

この試合をもって、昭和58年度の久我山ラグビーのすべてが終わった訳です。残念の思いが残りますが、考え方によっては、全国でベスト8の成績が残せれば、立派であると言えなくもありません。しかし、我が久我山ラグビーは、目標が、あくまでも「一番」である。その久我山にとっては、一年間を負け知らずで終わってこそ、初めて目標達成ということになる、途中で負ければ、それは「負け」でしかない。


アタックル(1984年2月)

山梨テレビ招待試合
タックルの悪いバックスではどうにも困る。アノ日川が伏見を破った試合、そして、アノ大津が大工大高を破った試合、両方とも、タックルの素晴らしさ。タックルのみで勝った試合である。
『アタックル』という言葉がある。今年の久我山の選手諸君には、この『アタックル』をよく理解し、それを身をもって実践してほしい。
私は『アタックル』のできない選手は、他のプレーがいかに上手でもメンバーに入れないことをハッキリと言っておく。
部員諸君の奮起を期待する。


自覚と覚悟(1984年7月)

New Zealamd遠征準備
N.Z.の各地に久我山の名が、試合の結果と共に永久に残ることになります。

N.Z.と日本とのラグビー交流は、ますますさかんになるでしょう。
日本のトップレベルにある久我山ラグビーの名を汚すことのないよう、覚悟をもってのぞんでもらいたい。
ただの観光旅行にでも行くような、自覚と覚悟のない者はmemberに入れることはできない。
日本国内で、方々に試合に歩くが、いつも、グランドと旅館とそれ以外、当地の観光などしたことがない。NZ遠征でも同じこと、遊びにいくのではない。あくまでも、ラグビーの試合に行くのだということを肝に命じてもらいたい。
負ければ、移動の日でさえ練習をすることになる。
あくまでも、試合をやりに、それも勝つために、という覚悟をかためることが最も重要である。代表選手の自覚をのぞむ。


敗軍の将の弁(1985年2月)

第64回全国大会報告
すべての責任はこの私にあります。年間の活動のすべては、最終で最大のこの大会のために、この大会に勝つためにやって来たはずです。最終目標であるこの大会に臨んで、初戦敗退という屈辱的な結果に終りました。8チームのAシードの1ツに入れられたチームが、1月3日のAシード校同志の試合まで勝ち残ってはじめて「責任を果たした」と言えます。

今はただ、何が不足であったか、何がマズかったのか、私の考え方はどうか、やり方はどうか、言動はどうか、生活態度はどうか、充分に反省し、又、60年度はどうしたら良いのか、指導方法はどうか、どうあるべきか、等々充分反省し、努力していこうと思っております。


一流校に向かって

秋エラグビー60周年招待試合
9/14~9/15秋工ラグビー60周年に招待され遠征試合を行って来ました。
試合以外で感じたこと、秋エラグビー60周年ということで、県内は勿論、県外からも多数のOBが集まり、記念式典、秋工職員チーム対超OBチーム、県外OB対秋田OB、そして久我山対秋工の試合は、有料試合で秋田テレビ放映、試合後、記念パーティとさすが秋工ラグビーと思わせる盛大なものでした。
久我山のためにわざわざ歓迎の昼食会を一流ホテルで開いてくれ、校長先生、市長さん、OB会長などおエラガタが多数出席されて、これも又、大変盛大なものでした。
全国大会出場45回、優勝13回の秋工の歴史を見る時、我が久我山ナドは、戦後の新興チームでしかない。
この久我山ラグビーを、そして久我山高校を、もっともっと優秀なチームに、そして優秀な学校にするためには、我々職員が、それこそ一所懸命になって、生徒の努力を待つのではなくて、努力させる指導をしなければならない。自覚をもって決意をもって、反省しそしてそれを持続させなければならない。ガンバロウ。


一流の練習を(1985年12月)

昭和60年度、第65回全国大会出場成らず
思い起こせば25年前、この私が久我山高校の教員になった時、久我山ラグビーを強くするにはどうしたらよいのか、どうやったら強いチームになるのか。どうしたら勝てるのか、とそのことばかりを考えて全国大会に出るまでに10年、それから全国優勝するまでに6年、16年かかってやっとの思いで日本一のチームを育てた。
以後ここ10年ほどは、梅木目黒と、お互いコロシ合いをしながら東京の、いや日本の高校ラグビー界を、久我山・目黒、目黒・久我山でリードして来た。高校ラグビー界では一流teamになったのだ。ラグビー界のみならず、今や日本中で「久我山高校」の名前を知らない者は居ない。その先鞭をつけたのはラグビー部だ!25年の年数をかけて、「ラグビー久我山」をつくり上げたのだ。それがどうだ。0-13。為す術もなく、0点である。完敗である。強かった時の久我山なら、負けるとなれば、メチャクチャに暴れて来る。そのような激しさは全く見られず、ただ頭をたれて…。強い久我山から、強かった久我山になってしまったか。一流teamから三流チームに成ってしまったのか。この一年、一応の努力をして来たつもりであった。しかし、このような結果になって反省してみた時、やはり努力が足りなかった。優勝した時と比べて、練習の量も少なく、内容も甘くなっていた。人数も多すぎる。久我山に居れば、ただ何となくやっていれば、それだけで一流チームができる、などという錯覚にとらわれていた。一流になるには一流の練習を積まなくてはならないのだ、ということを生徒ではなく、指導者自身が忘れていたのだ。


強さの秘訣(1986年7月)

6/10(火)6/11(水)6/14(木)学校が父母会等で午前中授業の時、八幡山へ行き明大の胸を借りて試合をやりましたが、明治もかなり上のメンバーを組んでくれましたが、それでも対等な試合で、3戦の内、2戦は勝ってしまいました。大学生もムキになって荒い試合をやりますが、久我山の選手も負けずに、ガムシャラに食らいついていきます。この点が、今年のチームの強い訳です。ナグられたり、蹴られたりして、萎縮してしまうようではダメで、負けずにあきらめずに、しつこく食らいついていく、これが強くなる最大の要因です、今年のチームは、この点がよい。やればやるほど強くなる感じです。6/22(日)しばらくぶりで明中とやりましたが大差がっいてしまいました。今年のチームは、大変期待できます。どうぞ楽しみにしていてください。


全ての大会でベストの結果を(1986年7月)

高校日本代表NZ遠征
7/20~8/20の一ヶ月にわたりNZ遠征です。
我が久我山からは1名も入って居りません。これは選出の時期が2月でそれを集めての1次合宿が3月、それを絞っての2次合宿が5月始め、これで決定して発表ということで、春季大会も、関東大会も、これを見てここから拾うことを全くしてもらえなかった。誠に残念です。2月新人戦で、明中に負けたことが大変な痛手となってしまいました。しかし、東京のセレクターにも一言いいたい。久我山の選手の潜在的素質の良さを、試合に負けたことによって見抜けなかった。結局、1度や2度、試合等を見ただけでは本当のことはわからないということではないのか。今、久我山は、春季大会優勝、関東大会優勝というこの時点で考えた時。良く走る、よく動くプロップ。当たりの強い動きの激しいロック。ボールのある所、必ず居る第3列。判断のよい正確なキックをするHB。かなり決定力の出て来た、そしてディフェンスも良いTB。スピードと切れの良さのFB。どれを取ってもジャパンの連中と対等に、あるいはそれ以上にやれる自信がある。
第1の証拠として関東大会で日川のプロツプは久我山のプロップにめくり上げられたではないか。熊谷のSHは久我山のSHにピクリと止められて、動けなかったではないか。この久我山から1人の侯補も出ないということは、何とも割り切れない気持ちが残る。2月の時期、新人戦で負けたということで、あきらめるよりしょうがない。今後、国体も含めて、全国大会で、誰が良い選手なのか、良い選手が居るから強いのだ!良い選手が多いから勝つのだ!ということを、グランドで、試合の場において見せつけてやらねばならない。


新入生の言葉(1986年5月)

今年もピカピカの新入生6百数十名が入学し、我がラグビー部にも30数名が入って来ました。
この新人達の一人、上級生の質問に対して、次のような答えが返ってきました。
「お前はどうして久我山に入って来たか」
の質問に、その新人の答え、
「僕は大東一も受験し、合格しましたが、大東一ではスゴイ選手が沢山入っているだろう、レギュラーはむずかしいだろう。久我山なら、この僕にでもかなりやれると考えて久我山に来ました」
だってサ。
久我山もナメられたものです。落ち目になると、色々な部分に現れて来て、そのことが又落ち目に一段と拍車をかけることになる。我が久我山ラグビーにとって今年こそが勝負の年である。復活成るか、成らざれば三流チームになりさがってしまうだろう。今年こそ!


アノ年こそ…

JAPAN Aに謙太郎・田村の2名
土屋謙太郎(久我山教諭)、田村誠(トヨタ自工)です。
この2名が久我山3年の時、前年優勝、そして2連覇の目標をもって臨んだ全国大会、準決勝でアノ巨漢大八木を擁する伏見工との対戦でラインアウトで一歩もヒケを取らなかった我がチビ軍団ロックの飛田、タッタ1回のPGを見事に決めた田村、そして引き分けて、涙の推薦クジを引いたキャプテン平地。
大工大切り札のNO.8高田健造を一歩も動かさなかった当方エイトの謙太郎。
決勝戦で、1年間八幡山でどうしても勝てなかった目黒に、この一戦だけ、たった一回だけで良いのだ。勝とう!と全員でそれこそ死にもの狂いで、臨んだあの一戦…。
アの年こそ、アノ大会ほど久我山にとって賞賛を受けた年はない。
又、負けてもさわやか(悔いは残る)という気分が本当にあるのだということを実感したものだ。


ページトップ

(C) 2012 Kokugakuin Kugayama Rugby OB Club